わたしを探して旅をする

ものすごーく私的な観劇感想文なぞ

髑髏城の七人Season花(20170412ほか)

今回初めて劇団☆新感線の舞台を観た。

ザッツ★エンターテイメントという感じだ。

脚本や演出と、照明とか舞台装置とか音楽とか効果音とか、わたしは舞台にどれだけのセクションがあるのか正直よくわかってはいないのだが、とにかくすべてのセクションが一枚岩となって、それもすべてが主張する形で、ガンガンに観客をあっちこっちの方向に揺さぶってくる。引き算の美学?なにそれ?と言わんばかりだ。バランスが悪いから何かを少し引っ込めるのではなく、バランス悪いからおまえもおまえももっと出てこいよ!みたいな。

正直、物語としては割と単純で、少年漫画っぽい、仲間との絆の力で正義が勝つというようなお話だと思う。(もちろんそれはそれでいい。)それほど後々まで私の心に何かを刻み付けるような、傷跡をつけるようなものではない。物語としては、だ。でも、それを全力で音楽が、効果音が、照明が、絶妙に協調することで強調し、波を作り、ちょろい私の感情はいとも簡単に波立ち、笑って泣いて、ハラハラして、ドキドキして、ときめいて、あっという間の3時間半が終わるという超絶エンターテイメントだった。そして、その世界に思いっきり引っ張り込まれ、あちらこちらに揺さぶられたという感情体験は、とてつもなく尾を引き、私の中に残っている。

とにかくとても楽しく、引き込まれる舞台だった。

これは完全に個人的なことであって舞台の感想とはちょっと離れた思い入れではあるのだけど、私はこの4月にちょっと思いがけない異動をすることになって、けっこうな勢いでオチていた。これまでそれなりに長いことやってきた仕事でそれなりの自信をつけて調子に乗っていたところ、延長線上にはあるもののちょっと違う筋肉を使うような違うステップの仕事をすることになってしまって、天狗の鼻を少しずつ折られ、羽をもがれたような日々を送っていたのだ。でも、仕事の後にこの劇場に行ってオープニングの音楽が鳴り始めると、強制的に別世界に連れて行ってもらい、ただただ戦国の世で泣いて笑ってドキドキワクワクするだけの時間を過ごすことができ、終わった後には、現実世界で何か解決するわけではないのだが確実に気持ちをリセットすることができた。とりわけ一番オチていたのが4月12日で(別に何か具体的な嫌なことがあったわけではないのだが)、一番良い席であったのも4月12日だった。幕間に、ふと、そういえばゆりかもめに揺られて劇場に向かうまでの間は今にも泣きそうな気持ちだったのに、気が付いたらそれはそれとして舞台に没頭していたことに気づき、すごく救われた気持ちになったことを強烈に覚えている。終演後は言わずもがな、うーわーおもしろかったー!成河天魔王かっこいい!かっこいい!!成河天魔王!!!(あ、成河さんのファンです。)わーーーー、ふぁーーーーーー、という気持ちでいっぱいになり、なんか、別に今日も私は役立たずだったし明日もきっと役立たずだけど、やれることやるしかないや、やれることはやれるだけやろう、それ以上でも以下でもないや、とにかく成河天魔王がかっこよくて舞台がおもしろかったのが今のすべてや、それでええんや、明日は明日を味わおう、と思えた。これはなんか今までの演劇体験とはまた少し違った形での救いだった。

また、実は大昔の大学生の頃に、テレビとかで効果音とか字幕とかその他もろもろの要素を加えることで視聴者の感情体験は影響を受けるのだろうかという研究をしたことがあって、まぁなかなかに影響を受けるという結論を出した(まぁいかんせん大学生の研究なのでアラだらけだったけれども)のだけど、いやホント、これもまたそうだったな、人間とはなんともいろんなものに影響を受けるものよと改めて思うと同時に、やっぱりそういう方向にいまだに興味を持っている自分というのもおもしろいなとかそんなことも思った。

だんだんよくわからない方向に舞台からそれてきた。いかん。

 

ステージアラウンドな回転劇場のこと

行ってみる前は、ステージに囲まれていてステージを渡る形で出入りするという状況がどのように感じられるだろうかというようなことを思っていたのだが、観てみて興味をひかれたのは、私たちの前の一定の空間の中で世界(舞台セット)が組み替えられるのではなく、次の場面がある場所に私たちが動いていくという構造だった。

実世界では、自分の見えないところでもあの人やこの人の人生が動いていて、その中で、自分が居合わせた場所や興味を持ってかかわりに行った場所だけを、私たちは見ている。そういう実世界の構造に、ほかの舞台よりも少しだけ近いのではないかと思ったのだ。私たちが無界屋の場面を見ている間も髑髏城での策略はきっと動いているし、髑髏城でのやりとりを見ていても、ほかの世界は動いている。観ていないときにもそこには無界屋や髑髏城があるのだ。そういうところに、いつもよりも少しだけたくさん想像をふくらませたくなった。

また、だいたいの場合はその場所でのシーンが終わると一旦スクリーンが閉じて、スクリーンに映し出される映像で場面をつなぎながら次のセットが見える場所に客席が移動していくのだが、いくつかの場面では、スクリーンが開いたまま、それぞれのセットで人が動きを続ける中で客席が動いていくというパターンがあった。これは、その世界に入り込んでいたそれまでの場面と違って、一旦少し距離を取った視点で世界を俯瞰するような感覚があった。それぞれの場所で過ごす人たちをスーっと通り過ぎていくのは、その人たちと同じ世界にいるわけではないことを認識させられる感じもあり、蘭兵衛が髑髏城に向かうシーンなんかは、蘭兵衛が私たち観客と同じ側の動線に足を置いていることで、蘭兵衛のなじみ切れなさというか、そっちの無界屋の人たちの世界とは一線を画したところに出てきてしまった感みたいなものも感じられるような気がして、とても切なかった。

最後のカーテンコールというかエンドロールというか、登場人物がそれぞれを象徴するようなセットで待ち構えているところを客席が回っていく演出なんかも、この劇場でしかできないことで、私はこの時間が実は何よりも好きだった。本編じゃないやないかと思われるかもしれないが、そうだ。でも、本編を象徴しているように思った。捨之介と沙霧が晴れ晴れとした表情で出てきておじぎをし、次の場面に観客を誘うと、今度は髑髏党の面々が、やりきったようなすっきりした表情で出てきておじぎをする。次に出てくる天魔王は、立ち上がって左顔面を覆うマスクを引きはがすと、ただ静かに天を仰ぐ。贋鉄齋は、きっといつもやっているのだろうと思わせるような感じで口から刀に水を噴射する。蘭兵衛は、花に囲まれて彼岸から此岸に思いを馳せるかのように振り返る。無界屋の人々は、かつての活気ある日々の素敵な集合写真のように笑顔でおじぎをする。この物語の少し後のあの世でのこの人たちは、それぞれこんな感じだったんじゃないかなと思い、そうするとやっぱり天魔王と蘭兵衛が悲しかった。そしてそんな天魔王を見ていてぐぐーっと気持ちを持っていかれた。好き。

 

成河天魔王のこと

もともと成河さんが好きでチケットをとったので、成河天魔王について。

いやーかっこよかった。殺陣が生き生きとしていてねぇ。左足が動くと明かしてからはこれまたぴょんぴょんくるんくるん自在に動いてねぇ。天魔王と名乗る彼は、もともとは彼なりの目指すものや憧れや悲しみがあったのかもしれないが、もはやすでにそんなものからは軸足を動かしてしまった、動機と目的と手段のどれが何なのかをすっかり見失った人という印象を受けた。それがときどきチクリと哀しいけど、天魔王本人はそんな哀しさもうぜーんぜんないんだろうなという感じだ(そこがいい)。声にもいろんな色があって、凍てつく鉄のような冷たい声を出すこともあれば、絡み付くような湿度のある声、小バカにするような声、有無を言わさない圧のある声、あぁ、この人はこうやってその場その場で絶妙に人を絡め取り、人心を掌握してきたんだな、ということをうかがわせた。蘭兵衛に向けた「兄者―」という言葉は呪文のようだ。もう、そもそもどこに向かっていたかとか、大事にしていたものとかなんて頭から消えてしまい、こういう、人を操る術や乱世の高揚感だけが残ってしまったからっぽの人なんだなという感じだった。私は成河さんのいろいろ背景を感じさせる演技がすごく好きなのだけど、背景がからっぽな演技もするのか…と、また恋に落ちた。

あのたっかい声を思い切り使った甲高いきゃーっきゃっきゃっきゃっきゃって笑い声とかホントいやらしい(すばらしい)。開幕当初は、実は少しこの笑い声がうまく場面になじんでいないときがあるなと感じていたのだが、徐々に微妙に高さとか間とかが変わり、最終的にはすごーくなじんで意味を持っていた。あと無界屋で蘭丸と極楽太夫が大事な言い合いをしている最中、天魔王がそんなのまったく興味ない感じで、後ろでおにぎりちょっと食ってポイするのが最低だった(すばらしい)。あのおにぎりは、襲撃前の場面で関八州荒武者隊と兄さが心を通わせる媒介として用いられていて、温かい仲間のつながりを象徴するようなモチーフなのだ。それを、なんの敬意もなく後ろの方でつまみぐいしてまずそうに捨てるというね。天魔王らしさが出てるんだろうなぁと思った。

ただ、ちょっと何回観てもようわからんままだったのは、蘭兵衛に口移しで夢見酒を飲ませるところだ。あんな一瞬では酒、飲ませることできてなくないか?あれではむしろただのキスではないか?あぁいう場面に特に高揚するタイプではないので、口移し自体はあってもなくても良いのだが、するなら思い切り流し込めるくらいの形でやってほしいし、しないなら、グラスを渡して促す(オペラ座の怪人のPONRでクリスティーヌに何か飲ませるようなあの感じ)だけでも、あの流れならば蘭兵衛は飲んだのではないかなぁなどと思った。演出意図としてはどのようなことだったのだろうか。

 

その他もろもろあふれる思い

上記の夢見酒シーン、私はその後の天魔王と沙霧が手前でいろいろとやっているシーンで、後ろで静かにがぶがぶと夢見酒を飲みまくっている蘭兵衛が悲しくてとても好きだ。信長の顔を見せる仮面を片手に、きっと信長や本能寺や焼かれた日のことに思いを馳せながらやけのようにがぶ飲みしていて、このシーンのこの姿が、無界屋の襲撃を蘭兵衛の行動として不自然でないものとして見せる役割を果たしていると思った。すごく悲しい。蘭兵衛もまたからっぽで、無界屋が大切であったことに嘘はないけれど、きっと何かが埋めきれなかった(と蘭兵衛は思い込んでしまっていた)のだ、と。あぁいう風にしか在れなかったのだな、と。

あとはね、細かいことはもう置いておくけれども、やっぱり小栗捨之介はかっこいい。タイトル出るところとか、否が応でもテンションが上がるかっこよさがあった。百人斬りとかも言わずもがなよ。かっこいい。りょうさんの極楽太夫は美しくたくましくかわいらしい。ちゃんと腹が据わっていて、迫力のある美しさを出すこともあれば、兵庫をからかう様子は力の抜けたかわいらしさもあったりして。なんやかんやこの人に一番泣かされた。

そんで、古田新太さんすごい。ずっとアホなことしてるのに成立してる…出オチかと思ったらまだまだオチる…なにあれ…好き…。

 

ライブビューイングのこと

思ったよりも客席が回っている感じもなんとなく体感でき、もちろん表情はつぶさに見ることができ、また、音声も聞き取りやすかったし、前の人の頭はまったく邪魔にならないし、殺陣とかも生で見るよりもリアリティーがある(当たらない距離で刀を振っているんだな感が少ない)など、これはこれでとても満足した。

劇場で観るのと違うのは、やはり私がいる場所と、今まさに物語が繰り広げられているその世界がつながっていない(共有されていない)というところだと思った。私は舞台に立ったことがないので、こちらからの影響が舞台上の人たちにとってどのように経験されるのかはわからないが、私への侵襲性とでも言おうか、私が舞台から受ける影響は少ない。遠い世界の出来事なのだ。当たり前だけれども、見える姿も音声もどうしてもそこで生で起きているほどには立体感がなかった。私が舞台に求めているのは共有であり、その世界の中に身を置きながらの体験なのだな、となんとなく思った。

 

さて、Season花が終わり、次はSeason鳥!

同じ筋書きを違うキャスト、違うキャラ設定、違う演出で、というのはとても興味があり、8月に見に行くのを楽しみにしている。