わたしを探して旅をする

ものすごーく私的な観劇感想文なぞ

死の舞踏/令嬢ジュリー(20170326)

死の舞踏と令嬢ジュリー、全然違う物語だが、どちらも自縄自縛の二者関係(にもう1人が巻き込まれる)という、がんじがらみがらまれぐるんぐるんのお話だった。

別に二つのストーリーに関連性があるわけではなく、個々で上演してもまったく構わないものではあったと思うけど、私としては、この死の舞踏という階上の物語と令嬢ジュリーという階下の物語を、ひとつの劇場をふたつに分ける形で上演するというのがとてもおもしろい試みであるように感じられた。

なんでとかはうまく説明できないけど、あの、呼び鈴とつながる管でしゃべるやつ(ラピュタでパズーがゴリアテだって叫ぶやつ)が、死の舞踏では下から伸びてきていて、令嬢ジュリーでは上から伸びてきているのとか、外に出るとき死の舞踏では階段を降りて行って、令嬢ジュリーでは階段を上って行くのとかが、端的にその立場の違いを象徴していた。だけど世界観はつながっていて、階上は階上で、階下は階下でそれぞれ自分と相手にからまる縄にもがいている人間の姿が、なんだかおもしろいというと語弊があるだろうか、はたから見れば滑稽でもあるが、上にも下にもどこにでも転がっていて自分にも確かに経験のある痛い状況として突きつけられ、とても興味深く感じられたのだ。


そんなつながりを感じながら観たせいだろうか、それとも共感しやすい内容だったのか、城田優の色気がすばらしかったからか、とにかく私にとっては後から観た令嬢ジュリーの方がすごく引き込まれた。

誰か、ジャンとお嬢様が部屋から戻ったときの事後感がすごいと感想を書いている方がいたのを見たが、本当に、そう。そうだぞ!城田優からダダ漏れる色気、自然を装って不自然に合わない視線、ふいにお嬢様の輪郭をついっと撫でるだけで、なんかこう全部出る。そしてその後は立場や役割といった鎧を脱いだ裸の二人の会話が始まるわけで。いやー。あれは良かった。

でも、与えられてきた(あるいは負わされてきた)重い重いものを脱いで自由になりたいとお嬢様は願ったのかもしれないけど、一方ではそれに支えられ護られてきたということに無自覚だったんだよな。脱いだら本当に脆くて弱くて、自分で自分の手足を支えて動かすことができなくて、命令してと求めてしまう。ジャンもまた、制服を脱いでお嬢様を手に入れたことで、お嬢様と同列になったかのような感覚に陥ったのか、他の地へ飛び立って立場から自由になればなんでもできると夢を見るけど、役割を捨てたところでたいした力があるわけではないということに無自覚だった。

クリスティンが立場を見失うまいと手綱を握りしめるかのように立っているのが二人と対照的で、それがますます二人の脆さを浮き上がらせるように見えた。

最後の呼び鈴がまた、いろんなものをかき立てる。


私たちは何に縛られ、何に支えられてるんだろうな。意外と、縛っているのが自分自身で、支えているのが役割や立場だったりするのかもしれない。とか、観終わってそんなことをつらつらと考えている。


どうでもいいけど、「もっと優しく言ってちょうだい!」とお嬢様が何度も言うのには少しだけ(マチソワで疲れていたこともあるかもしれない)面倒臭くなってしまい、私の頭の中の吉田戦車が「もっとお母さんみたいに言ってくれ!」と言い出して変な笑いが出そうになってしまった。伝染るんです偉大なり。