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わたしを探して旅をする

ものすごーく私的な観劇感想文なぞ

白蟻の巣(20170312)

ブログの書き方模索中。

まとめようとするとハードル上がる上に結局あんまりうまく書けないことがわかったので、今回はもう背伸びせずにダラダラ書いてみる。まとまりはないけど、まとめようとしてもたいがいまとまらないからいいだろう。


今日は白蟻の巣を観てきた。

三島さんのことはよく知りません。代表作は「金閣寺」、という高校受験で培った知識と、割腹自殺した人という印象だけが強い。

だからいろいろ読み違えてるかもしれないし、知ってたらもっといろんなものが見えるのかもしれないけどまぁそれは置いといて。


うしろの紗幕がキレイ、というのが第一印象だった。家の外と中を分かつものだったり、ときにこの世の此岸と彼岸を分かつものだったりするように見えたりもした。

その向こうから聞こえる鳥のさえずりや酒盛りやカーニバルが何やら象徴的で、家具の配置が動くこともまた何やら象徴的であった。1回しか観てないので何が何を表していると考察できるほどには理解できていないのだけど。


寛大さの牢屋だ、というようなセリフがあったが、私は、旦那様が寛大さを装ってしまったことによって、なにもかもがとらわれてしまったと感じた。真の寛大さではないのだ。意図しているにしても意図していないにしても、許していないのだよな、旦那様は。だけど、その胸の内にくすぶる問題を扱うこともできないのだ。許したことにしたから扱えないのか、扱えないから「許す」という言葉を使ってフタをしたのか、その両方なのか、そのへんはわからないけど。結局、赦すことはできず、赦していないのに、赦さないこともできない。何もできないことが、「寛大」という言葉に押し込められた。寛大さの牢屋に閉じ込められているのは旦那様も同じなのだ。

悲しくも少し滑稽でもあるが、そうしてこの人たちは後悔することも前に進むことも何も十分にできない「死んだ人」となった。この先もまだ死んだ人として生きていくんだろうか。唯一生きていた啓子もまた、あれを経て死んだ人になっていくのだろうか。


なんだかこう、閃光のような激しい怒りではなく、粘り気のあるどろどろとした怒りが流れる作品だなと思った。


こういうことはどこにでも転がっていて、ちょうどいい具合に悲しんだり怒ったりすることはなんと難しいことか、と思う。

もしかしたら、ちょうどよく喜んだり楽しんだりすることも、ときには難しいのかもしれない。

振る舞いたいように振る舞えないことがある。それが自分を縛り、他人を縛り、次の展開を作ってしまうことがある。暴力になることもある。

いや、人の行動はその意図に関わらず、誰かを傷つけることもあれば、誰かを救うこともあるのだ。どう転ぶかはわからない。だったらせめて、自分から湧き出でるものに誠実に、自分の大事にしたいものに沿っていたいものだ。どんどん物語から離れるけど、そんなことを考えた。


私は、完全なる勘違いにより、観始める前に「白蟻の巣」というタイトルを見てアリジゴクを思い浮かべていたのだが、あながち間違いでもなかったかもしれない。いや、完全に間違いですし、白蟻の巣もがっつりあの物語を象徴したものなんですけど、あの人たち、アリジゴクにとらわれてましたよね?と。一度ハマると出るのが難しいんだよ、アリジゴクは。


そんなこんな、とても、おもしろかった。旦那様の平田満さんの表向き落ち着き払った抑えた声がステキで、でもその奥にただの寛大な人ではない何かが常に潜んでいることをうかがわせる響きがすばらしかった。なんなら、登場シーンで、えっかっこいい…となぜか(と言ったら失礼なのだろうか)思わされた。じいや的な半海さんもコミカルだけどこの人どこまでわかってんだろもしかして全部わかってんのかな感がすごい。道化的役回りだったんだろうか。でもそこまで道化感はなかったか。


三島由紀夫とか難しそうとビビりまくりつつ、あんまり余裕もなかったので予習なしで観たのだが、(予習してたらもっといろいろ考えたかもという可能性は置いておいて)わかりにくさなどはなく、満足した。戯曲もそのうち読みたいと思う。