わたしを探して旅をする

ものすごーく私的な観劇感想文なぞ

髑髏城の七人Season花(20170412ほか)

今回初めて劇団☆新感線の舞台を観た。

ザッツ★エンターテイメントという感じだ。

脚本や演出と、照明とか舞台装置とか音楽とか効果音とか、わたしは舞台にどれだけのセクションがあるのか正直よくわかってはいないのだが、とにかくすべてのセクションが一枚岩となって、それもすべてが主張する形で、ガンガンに観客をあっちこっちの方向に揺さぶってくる。引き算の美学?なにそれ?と言わんばかりだ。バランスが悪いから何かを少し引っ込めるのではなく、バランス悪いからおまえもおまえももっと出てこいよ!みたいな。

正直、物語としては割と単純で、少年漫画っぽい、仲間との絆の力で正義が勝つというようなお話だと思う。(もちろんそれはそれでいい。)それほど後々まで私の心に何かを刻み付けるような、傷跡をつけるようなものではない。物語としては、だ。でも、それを全力で音楽が、効果音が、照明が、絶妙に協調することで強調し、波を作り、ちょろい私の感情はいとも簡単に波立ち、笑って泣いて、ハラハラして、ドキドキして、ときめいて、あっという間の3時間半が終わるという超絶エンターテイメントだった。そして、その世界に思いっきり引っ張り込まれ、あちらこちらに揺さぶられたという感情体験は、とてつもなく尾を引き、私の中に残っている。

とにかくとても楽しく、引き込まれる舞台だった。

これは完全に個人的なことであって舞台の感想とはちょっと離れた思い入れではあるのだけど、私はこの4月にちょっと思いがけない異動をすることになって、けっこうな勢いでオチていた。これまでそれなりに長いことやってきた仕事でそれなりの自信をつけて調子に乗っていたところ、延長線上にはあるもののちょっと違う筋肉を使うような違うステップの仕事をすることになってしまって、天狗の鼻を少しずつ折られ、羽をもがれたような日々を送っていたのだ。でも、仕事の後にこの劇場に行ってオープニングの音楽が鳴り始めると、強制的に別世界に連れて行ってもらい、ただただ戦国の世で泣いて笑ってドキドキワクワクするだけの時間を過ごすことができ、終わった後には、現実世界で何か解決するわけではないのだが確実に気持ちをリセットすることができた。とりわけ一番オチていたのが4月12日で(別に何か具体的な嫌なことがあったわけではないのだが)、一番良い席であったのも4月12日だった。幕間に、ふと、そういえばゆりかもめに揺られて劇場に向かうまでの間は今にも泣きそうな気持ちだったのに、気が付いたらそれはそれとして舞台に没頭していたことに気づき、すごく救われた気持ちになったことを強烈に覚えている。終演後は言わずもがな、うーわーおもしろかったー!成河天魔王かっこいい!かっこいい!!成河天魔王!!!(あ、成河さんのファンです。)わーーーー、ふぁーーーーーー、という気持ちでいっぱいになり、なんか、別に今日も私は役立たずだったし明日もきっと役立たずだけど、やれることやるしかないや、やれることはやれるだけやろう、それ以上でも以下でもないや、とにかく成河天魔王がかっこよくて舞台がおもしろかったのが今のすべてや、それでええんや、明日は明日を味わおう、と思えた。これはなんか今までの演劇体験とはまた少し違った形での救いだった。

また、実は大昔の大学生の頃に、テレビとかで効果音とか字幕とかその他もろもろの要素を加えることで視聴者の感情体験は影響を受けるのだろうかという研究をしたことがあって、まぁなかなかに影響を受けるという結論を出した(まぁいかんせん大学生の研究なのでアラだらけだったけれども)のだけど、いやホント、これもまたそうだったな、人間とはなんともいろんなものに影響を受けるものよと改めて思うと同時に、やっぱりそういう方向にいまだに興味を持っている自分というのもおもしろいなとかそんなことも思った。

だんだんよくわからない方向に舞台からそれてきた。いかん。

 

ステージアラウンドな回転劇場のこと

行ってみる前は、ステージに囲まれていてステージを渡る形で出入りするという状況がどのように感じられるだろうかというようなことを思っていたのだが、観てみて興味をひかれたのは、私たちの前の一定の空間の中で世界(舞台セット)が組み替えられるのではなく、次の場面がある場所に私たちが動いていくという構造だった。

実世界では、自分の見えないところでもあの人やこの人の人生が動いていて、その中で、自分が居合わせた場所や興味を持ってかかわりに行った場所だけを、私たちは見ている。そういう実世界の構造に、ほかの舞台よりも少しだけ近いのではないかと思ったのだ。私たちが無界屋の場面を見ている間も髑髏城での策略はきっと動いているし、髑髏城でのやりとりを見ていても、ほかの世界は動いている。観ていないときにもそこには無界屋や髑髏城があるのだ。そういうところに、いつもよりも少しだけたくさん想像をふくらませたくなった。

また、だいたいの場合はその場所でのシーンが終わると一旦スクリーンが閉じて、スクリーンに映し出される映像で場面をつなぎながら次のセットが見える場所に客席が移動していくのだが、いくつかの場面では、スクリーンが開いたまま、それぞれのセットで人が動きを続ける中で客席が動いていくというパターンがあった。これは、その世界に入り込んでいたそれまでの場面と違って、一旦少し距離を取った視点で世界を俯瞰するような感覚があった。それぞれの場所で過ごす人たちをスーっと通り過ぎていくのは、その人たちと同じ世界にいるわけではないことを認識させられる感じもあり、蘭兵衛が髑髏城に向かうシーンなんかは、蘭兵衛が私たち観客と同じ側の動線に足を置いていることで、蘭兵衛のなじみ切れなさというか、そっちの無界屋の人たちの世界とは一線を画したところに出てきてしまった感みたいなものも感じられるような気がして、とても切なかった。

最後のカーテンコールというかエンドロールというか、登場人物がそれぞれを象徴するようなセットで待ち構えているところを客席が回っていく演出なんかも、この劇場でしかできないことで、私はこの時間が実は何よりも好きだった。本編じゃないやないかと思われるかもしれないが、そうだ。でも、本編を象徴しているように思った。捨之介と沙霧が晴れ晴れとした表情で出てきておじぎをし、次の場面に観客を誘うと、今度は髑髏党の面々が、やりきったようなすっきりした表情で出てきておじぎをする。次に出てくる天魔王は、立ち上がって左顔面を覆うマスクを引きはがすと、ただ静かに天を仰ぐ。贋鉄齋は、きっといつもやっているのだろうと思わせるような感じで口から刀に水を噴射する。蘭兵衛は、花に囲まれて彼岸から此岸に思いを馳せるかのように振り返る。無界屋の人々は、かつての活気ある日々の素敵な集合写真のように笑顔でおじぎをする。この物語の少し後のあの世でのこの人たちは、それぞれこんな感じだったんじゃないかなと思い、そうするとやっぱり天魔王と蘭兵衛が悲しかった。そしてそんな天魔王を見ていてぐぐーっと気持ちを持っていかれた。好き。

 

成河天魔王のこと

もともと成河さんが好きでチケットをとったので、成河天魔王について。

いやーかっこよかった。殺陣が生き生きとしていてねぇ。左足が動くと明かしてからはこれまたぴょんぴょんくるんくるん自在に動いてねぇ。天魔王と名乗る彼は、もともとは彼なりの目指すものや憧れや悲しみがあったのかもしれないが、もはやすでにそんなものからは軸足を動かしてしまった、動機と目的と手段のどれが何なのかをすっかり見失った人という印象を受けた。それがときどきチクリと哀しいけど、天魔王本人はそんな哀しさもうぜーんぜんないんだろうなという感じだ(そこがいい)。声にもいろんな色があって、凍てつく鉄のような冷たい声を出すこともあれば、絡み付くような湿度のある声、小バカにするような声、有無を言わさない圧のある声、あぁ、この人はこうやってその場その場で絶妙に人を絡め取り、人心を掌握してきたんだな、ということをうかがわせた。蘭兵衛に向けた「兄者―」という言葉は呪文のようだ。もう、そもそもどこに向かっていたかとか、大事にしていたものとかなんて頭から消えてしまい、こういう、人を操る術や乱世の高揚感だけが残ってしまったからっぽの人なんだなという感じだった。私は成河さんのいろいろ背景を感じさせる演技がすごく好きなのだけど、背景がからっぽな演技もするのか…と、また恋に落ちた。

あのたっかい声を思い切り使った甲高いきゃーっきゃっきゃっきゃっきゃって笑い声とかホントいやらしい(すばらしい)。開幕当初は、実は少しこの笑い声がうまく場面になじんでいないときがあるなと感じていたのだが、徐々に微妙に高さとか間とかが変わり、最終的にはすごーくなじんで意味を持っていた。あと無界屋で蘭丸と極楽太夫が大事な言い合いをしている最中、天魔王がそんなのまったく興味ない感じで、後ろでおにぎりちょっと食ってポイするのが最低だった(すばらしい)。あのおにぎりは、襲撃前の場面で関八州荒武者隊と兄さが心を通わせる媒介として用いられていて、温かい仲間のつながりを象徴するようなモチーフなのだ。それを、なんの敬意もなく後ろの方でつまみぐいしてまずそうに捨てるというね。天魔王らしさが出てるんだろうなぁと思った。

ただ、ちょっと何回観てもようわからんままだったのは、蘭兵衛に口移しで夢見酒を飲ませるところだ。あんな一瞬では酒、飲ませることできてなくないか?あれではむしろただのキスではないか?あぁいう場面に特に高揚するタイプではないので、口移し自体はあってもなくても良いのだが、するなら思い切り流し込めるくらいの形でやってほしいし、しないなら、グラスを渡して促す(オペラ座の怪人のPONRでクリスティーヌに何か飲ませるようなあの感じ)だけでも、あの流れならば蘭兵衛は飲んだのではないかなぁなどと思った。演出意図としてはどのようなことだったのだろうか。

 

その他もろもろあふれる思い

上記の夢見酒シーン、私はその後の天魔王と沙霧が手前でいろいろとやっているシーンで、後ろで静かにがぶがぶと夢見酒を飲みまくっている蘭兵衛が悲しくてとても好きだ。信長の顔を見せる仮面を片手に、きっと信長や本能寺や焼かれた日のことに思いを馳せながらやけのようにがぶ飲みしていて、このシーンのこの姿が、無界屋の襲撃を蘭兵衛の行動として不自然でないものとして見せる役割を果たしていると思った。すごく悲しい。蘭兵衛もまたからっぽで、無界屋が大切であったことに嘘はないけれど、きっと何かが埋めきれなかった(と蘭兵衛は思い込んでしまっていた)のだ、と。あぁいう風にしか在れなかったのだな、と。

あとはね、細かいことはもう置いておくけれども、やっぱり小栗捨之介はかっこいい。タイトル出るところとか、否が応でもテンションが上がるかっこよさがあった。百人斬りとかも言わずもがなよ。かっこいい。りょうさんの極楽太夫は美しくたくましくかわいらしい。ちゃんと腹が据わっていて、迫力のある美しさを出すこともあれば、兵庫をからかう様子は力の抜けたかわいらしさもあったりして。なんやかんやこの人に一番泣かされた。

そんで、古田新太さんすごい。ずっとアホなことしてるのに成立してる…出オチかと思ったらまだまだオチる…なにあれ…好き…。

 

ライブビューイングのこと

思ったよりも客席が回っている感じもなんとなく体感でき、もちろん表情はつぶさに見ることができ、また、音声も聞き取りやすかったし、前の人の頭はまったく邪魔にならないし、殺陣とかも生で見るよりもリアリティーがある(当たらない距離で刀を振っているんだな感が少ない)など、これはこれでとても満足した。

劇場で観るのと違うのは、やはり私がいる場所と、今まさに物語が繰り広げられているその世界がつながっていない(共有されていない)というところだと思った。私は舞台に立ったことがないので、こちらからの影響が舞台上の人たちにとってどのように経験されるのかはわからないが、私への侵襲性とでも言おうか、私が舞台から受ける影響は少ない。遠い世界の出来事なのだ。当たり前だけれども、見える姿も音声もどうしてもそこで生で起きているほどには立体感がなかった。私が舞台に求めているのは共有であり、その世界の中に身を置きながらの体験なのだな、となんとなく思った。

 

さて、Season花が終わり、次はSeason鳥!

同じ筋書きを違うキャスト、違うキャラ設定、違う演出で、というのはとても興味があり、8月に見に行くのを楽しみにしている。

死の舞踏/令嬢ジュリー(20170326)

死の舞踏と令嬢ジュリー、全然違う物語だが、どちらも自縄自縛の二者関係(にもう1人が巻き込まれる)という、がんじがらみがらまれぐるんぐるんのお話だった。

別に二つのストーリーに関連性があるわけではなく、個々で上演してもまったく構わないものではあったと思うけど、私としては、この死の舞踏という階上の物語と令嬢ジュリーという階下の物語を、ひとつの劇場をふたつに分ける形で上演するというのがとてもおもしろい試みであるように感じられた。

なんでとかはうまく説明できないけど、あの、呼び鈴とつながる管でしゃべるやつ(ラピュタでパズーがゴリアテだって叫ぶやつ)が、死の舞踏では下から伸びてきていて、令嬢ジュリーでは上から伸びてきているのとか、外に出るとき死の舞踏では階段を降りて行って、令嬢ジュリーでは階段を上って行くのとかが、端的にその立場の違いを象徴していた。だけど世界観はつながっていて、階上は階上で、階下は階下でそれぞれ自分と相手にからまる縄にもがいている人間の姿が、なんだかおもしろいというと語弊があるだろうか、はたから見れば滑稽でもあるが、上にも下にもどこにでも転がっていて自分にも確かに経験のある痛い状況として突きつけられ、とても興味深く感じられたのだ。


そんなつながりを感じながら観たせいだろうか、それとも共感しやすい内容だったのか、城田優の色気がすばらしかったからか、とにかく私にとっては後から観た令嬢ジュリーの方がすごく引き込まれた。

誰か、ジャンとお嬢様が部屋から戻ったときの事後感がすごいと感想を書いている方がいたのを見たが、本当に、そう。そうだぞ!城田優からダダ漏れる色気、自然を装って不自然に合わない視線、ふいにお嬢様の輪郭をついっと撫でるだけで、なんかこう全部出る。そしてその後は立場や役割といった鎧を脱いだ裸の二人の会話が始まるわけで。いやー。あれは良かった。

でも、与えられてきた(あるいは負わされてきた)重い重いものを脱いで自由になりたいとお嬢様は願ったのかもしれないけど、一方ではそれに支えられ護られてきたということに無自覚だったんだよな。脱いだら本当に脆くて弱くて、自分で自分の手足を支えて動かすことができなくて、命令してと求めてしまう。ジャンもまた、制服を脱いでお嬢様を手に入れたことで、お嬢様と同列になったかのような感覚に陥ったのか、他の地へ飛び立って立場から自由になればなんでもできると夢を見るけど、役割を捨てたところでたいした力があるわけではないということに無自覚だった。

クリスティンが立場を見失うまいと手綱を握りしめるかのように立っているのが二人と対照的で、それがますます二人の脆さを浮き上がらせるように見えた。

最後の呼び鈴がまた、いろんなものをかき立てる。


私たちは何に縛られ、何に支えられてるんだろうな。意外と、縛っているのが自分自身で、支えているのが役割や立場だったりするのかもしれない。とか、観終わってそんなことをつらつらと考えている。


どうでもいいけど、「もっと優しく言ってちょうだい!」とお嬢様が何度も言うのには少しだけ(マチソワで疲れていたこともあるかもしれない)面倒臭くなってしまい、私の頭の中の吉田戦車が「もっとお母さんみたいに言ってくれ!」と言い出して変な笑いが出そうになってしまった。伝染るんです偉大なり。

白蟻の巣(20170312)

ブログの書き方模索中。

まとめようとするとハードル上がる上に結局あんまりうまく書けないことがわかったので、今回はもう背伸びせずにダラダラ書いてみる。まとまりはないけど、まとめようとしてもたいがいまとまらないからいいだろう。


今日は白蟻の巣を観てきた。

三島さんのことはよく知りません。代表作は「金閣寺」、という高校受験で培った知識と、割腹自殺した人という印象だけが強い。

だからいろいろ読み違えてるかもしれないし、知ってたらもっといろんなものが見えるのかもしれないけどまぁそれは置いといて。


うしろの紗幕がキレイ、というのが第一印象だった。家の外と中を分かつものだったり、ときにこの世の此岸と彼岸を分かつものだったりするように見えたりもした。

その向こうから聞こえる鳥のさえずりや酒盛りやカーニバルが何やら象徴的で、家具の配置が動くこともまた何やら象徴的であった。1回しか観てないので何が何を表していると考察できるほどには理解できていないのだけど。


寛大さの牢屋だ、というようなセリフがあったが、私は、旦那様が寛大さを装ってしまったことによって、なにもかもがとらわれてしまったと感じた。真の寛大さではないのだ。意図しているにしても意図していないにしても、許していないのだよな、旦那様は。だけど、その胸の内にくすぶる問題を扱うこともできないのだ。許したことにしたから扱えないのか、扱えないから「許す」という言葉を使ってフタをしたのか、その両方なのか、そのへんはわからないけど。結局、赦すことはできず、赦していないのに、赦さないこともできない。何もできないことが、「寛大」という言葉に押し込められた。寛大さの牢屋に閉じ込められているのは旦那様も同じなのだ。

悲しくも少し滑稽でもあるが、そうしてこの人たちは後悔することも前に進むことも何も十分にできない「死んだ人」となった。この先もまだ死んだ人として生きていくんだろうか。唯一生きていた啓子もまた、あれを経て死んだ人になっていくのだろうか。


なんだかこう、閃光のような激しい怒りではなく、粘り気のあるどろどろとした怒りが流れる作品だなと思った。


こういうことはどこにでも転がっていて、ちょうどいい具合に悲しんだり怒ったりすることはなんと難しいことか、と思う。

もしかしたら、ちょうどよく喜んだり楽しんだりすることも、ときには難しいのかもしれない。

振る舞いたいように振る舞えないことがある。それが自分を縛り、他人を縛り、次の展開を作ってしまうことがある。暴力になることもある。

いや、人の行動はその意図に関わらず、誰かを傷つけることもあれば、誰かを救うこともあるのだ。どう転ぶかはわからない。だったらせめて、自分から湧き出でるものに誠実に、自分の大事にしたいものに沿っていたいものだ。どんどん物語から離れるけど、そんなことを考えた。


私は、完全なる勘違いにより、観始める前に「白蟻の巣」というタイトルを見てアリジゴクを思い浮かべていたのだが、あながち間違いでもなかったかもしれない。いや、完全に間違いですし、白蟻の巣もがっつりあの物語を象徴したものなんですけど、あの人たち、アリジゴクにとらわれてましたよね?と。一度ハマると出るのが難しいんだよ、アリジゴクは。


そんなこんな、とても、おもしろかった。旦那様の平田満さんの表向き落ち着き払った抑えた声がステキで、でもその奥にただの寛大な人ではない何かが常に潜んでいることをうかがわせる響きがすばらしかった。なんなら、登場シーンで、えっかっこいい…となぜか(と言ったら失礼なのだろうか)思わされた。じいや的な半海さんもコミカルだけどこの人どこまでわかってんだろもしかして全部わかってんのかな感がすごい。道化的役回りだったんだろうか。でもそこまで道化感はなかったか。


三島由紀夫とか難しそうとビビりまくりつつ、あんまり余裕もなかったので予習なしで観たのだが、(予習してたらもっといろいろ考えたかもという可能性は置いておいて)わかりにくさなどはなく、満足した。戯曲もそのうち読みたいと思う。


わたしは真悟(20160108ソワレ)

333ノ テッペンカラ トビウツレ!!!

 

工場見学で出会った小学6年生の悟と真鈴は,

産業用ロボットに言葉や情報を与えていく。

そして,夏休みの終わり。

大人によって引き裂かれそうになった二人は,

その「愛」をまっとうするために

結婚して子どもを作る決意をした。

子どもの作り方がわからない悟に産業用ロボットが出した答えは,

「333ノ テッペンカラ トビウツレ」

大人たちがふもとで大騒ぎする中,東京タワーから飛び出す二人。

その頃,二人の知らない場所で奇跡が起きていた。

 

人知れず自我が生まれた産業用ロボットは,

従業員たちを振り切って工場から逃げ出した。

そして,自らを悟と真鈴の子だと理解し,

自らに「真悟」という名前を与えて,

父の言葉を母に伝える旅に出る。

母の最後まで言えなかった言葉を父に伝えたいと願う。

 

最後には,「アイ」だけが残った。

 

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 

舞台を見ていてぼんやりと思ったのは,

美しいなぁということだった。

最後のシーンがとても温かくて美しく感じたというのもあるが,

ダンサーさんの動きとか背景に出てくる身体の曲線とかが

なんか少し不気味でもあるけれども,美しいのだ。

その不気味さと美しさと温かさが,

誰もが経験する子どもであるワタシの喪失という出来事を

悲劇的に,しかし美しく,温かく包んでいる作品だと思った。

ちょっとこねくりまわして考えすぎな言い回しだろうか。

でも,いわゆるハッピーエンドではないのだろうが,

とても温かい気持ちで観劇を終えたのだ。

 

そして,なんだかいろんなことが頭をよぎっていった。

 

私とは何か,という問いは,

まさに大人になっていく過程で突きつけられる問いだ。

自我同一性の確立とか言うと仰々しいだろうか。

 

子どもの頃のワタシと,大人の私は,同じわたしなのだろうか。

たぶん,違うのだ。

悟と真鈴もきっと,彼らが予感したとおり,

333ノテッペンにいたときの彼らではなくなった。

彼らは,間違いなく彼らが育てた子どもである「真悟」を

見つけることができなかった。

あのときの光のようなまっすぐさと強さは,

その後の彼らにはない。

彼らの記憶は,温かくも薄れていった。

かたや真悟は,自らに名前を与え,使命を与え,

それをどこまでもまっすぐに全力でまっとうした。

これが機械と人間の違いなのだろうか。

それとも,子どもと大人の違いなのだろうか。

真悟が倒れるそばで穏やかに遠くを見つめる悟役の門脇麦さんの

少しだけ大人びた表情が印象的だった。

後先を考えずにどこまでも突き進んだ子ども時代は,

気づけなかった奇跡を残して終わっていき,

あのときのワタシたちはもういないけど,

真悟が届けた「アイ」だけは,そこに残ったのだ。

 

そこからの最後の場面がシンプルで美しいんだ。

子どものままの二人が子どもらしくブランコで遊び,

それを真悟が見守り,そして,背中を押し続ける。

ここんとこプレビューのときは

正直ブランコをきれいに操り切れていなかったのだが,

きれいにそろうと本当にきれいに終わるのだと思った。

 

突然話題を変えるが,

私は,成河さん演じる真悟が「わたしは,真悟!」と名乗るとともに

真悟本体(ロボット部分)を操る鈴木さんと引間さんの

顔を覆うマスク(?)をひっぺがす演出がとても好きだ。

私は名前を付けるということは,

その物や事象の存在を認める(存在する場を与えると言ってもいいかもしれない)

ことと密接につながっていると思っている。

だから,うまく言えないのだが,

名前が生まれるとともに個性がある何かになるその演出が,

とてもしっくりきて,とても素敵なことに感じられたのだ。

そういうところもまた,美しかった。

このあたり考え出すとわけのわからない方向に行きがちなので,

ここらあたりでやめておく。

 

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

今回見ていて惹きつけられたのは,やはり真悟ズだろうか。

本体を操る引間文佳さんと鈴木竜さんの動きがとてもなめらかでいいし,

何より自我を演じる成河さんとなんか通じ合ってる感じがするのだ。

互いの動きが,なんとなく,何度となく。

 

あとは悟の門脇麦さん。

ところどころ,本当にマンガの悟と同じポーズをしていて,

昭和の男の子感がとてもかわいかった。

 

昭和といえば,真悟本体の造形やそこここの昭和テイスト,楳図テイストに

原作への敬意を感じる作品でもあった。

 

あと,最初の333シーンで

群衆としてがっしがしに踊る大原櫻子さんにもびびった。すごいな。

 

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 

で,だ。

わたし的な本筋はここからだ。

成河さんが,美しいです。

うだうだとうざいことを語ったが,

正直なところ,素直な感想は大半がこれだ。

生まれたところでしょ,

自分の身体感覚をつかむところでしょ,

シカクがサンカクになってマルになってなお高みを目指すところでしょ,

母を助けるところでしょ,

父に存在を否定しないでとすがるところでしょ,

大口開けてぶっ倒れてからの,あの美しいラストでしょ。

すごく観客からの見た目も意識した表現をしているように思う。わかりやすい。

そんでロボットの自我という抽象的で異質な存在なんだけど,

全部としっかりとつながりを持って存在しているんだよ。

なんならつないでるんだよ。場面を。作品を。

 

一般人が日常生活で使い得ないような部分の筋肉を使っているに違いないと思わされ,

関節の数は私と同じかな,と数えてみたら同じだなとか時折思考を飛ばしつつ,

そんであぁ美しかったと思って息をついていると,

カテコでちょっとおどけた感じのロボットダンスをしだすという・・・

なにそのギャップーーーー!!

おかわりーーー!

というわけで,今週末もまた行きます。

 

 

はーー長い文章書いた。